五段 あなたは、古武道としての居合道の本質をどのようにとらえていますか。
平成27年3月22日 受審段位 五段 藤井桂子
まず、武道と古武道を明確に分類して促えることに意義があるのかということに、疑問を覚える。
現代で言う所の武道とは、明治以降に確立され、技の鍛錬の他に、道としての理念を説いたものを示している。しかし、古武道とされたものには、道がないのか。いや、やはり古武道にも理想とした理念があり、それが脈々と受け継がれ道となり、現在に至るのである。
では、「古」とは何であるのか。稽古照今との言葉が示すように、古を稽みて今と照らすことではないだろうか。
『茶話抄』という書物に、表千家五代随流斎の茶を「茶の風、古体にして、よろづ内場に、利休形を尊ばれけるなり」と記されており、随流斎が生涯を通して何よりも大切にしたのは、利休の古風を守り、千家の茶の道統を継承していくことであった。現在の茶の発展は、随流斎が茶の道を正しく伝え、次代の家本へと引き継がれて行ったからではないだろうか。
「古」を守り、道が受け継がれる茶道に古茶道いうものがないように、古武道と表現する意義はないように考えるのである。
さて、居合道の本質を問われたが、前回までに述べた設問から導き出される答えてとして、剣を持って生きる意味を見出すことが居合の本質であると私は考える。そして、現代を生きる者の務めとして、稽古を通して、居合道の源流を探り、古の道を省みて、守り、継承して行くことこそが居合道の本筋であると考える。本来の居合道に立ち返った時こそ、武道としての居合道の本質を促えることができるのではないだろうか。
時流や簡易なものに流されることなく、本流を見極め、己の血肉と為していくことこそ、武道のあるべき姿であり、今自己を振り返り、居合道の理想とする姿が体現できているのか、確かめてみるべき時がきているのかもしれない。
二段 居合道修行の目的
平成23年11月27日 受審段位 二段 和田里 花
生きるということは難しい。めまぐるしい時間の中で、決まりきった毎日を退屈に過ごす。流れるままに流されて、周りの人が望む自分になろうとし、本音は言えない。言わせてもらえない。それは生きていると言えるのだろうか。
体はもちろん生きている。意思もある。でも中身がない。自分がカラッポなのだ。
そのぶん、私は刀をうらやましく思う。あれほど存在が明確なものはないんじゃないかと思う。ただ人を斬る。このためだけに創られ、使われてきた。使い手によって義に使うか、外道に使うかの差はあるが、その一点のみは決して変わらず、ぶれることがない。刀はその見た目に相反さず、ただ真っ直ぐなのだ。
在るがままなのだ。
そんな刀を持って、私は一体何を斬っているのだろうか。想定された敵か、それとも今現在気にくわないと思う敵か。何度も刀をふるうちに気がついた。私は己自身を斬っているのだ。流されるままに流される私。周りの望む自分になろうとする私。本音を言えない私。刀をふるたびにそんな自分を感じる。そして刀をふっていくうちに目の前の気にくわない自分と、刀をにぎる自分が少しずつ一緒になっていくような気がする。目の前の自分を受け入れて、私はうらやましいと思う刀になっていく。在るがままになっていく。それが私の修行なのだと思う。
きっといつか、在るがままに刀を抜いて、在るがままに振り下ろし、在るがままにおさめたのならば、それは私の目指す居合になり、在り方になるだろう。